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砥石・砥山の “ほんとう” と 負の部分
 昭和初期の手挽き(3本刃の鋸を2人で挽きあう)の時代から発動機を動力として引くようになり、  戦後動力電気が引かれ電気の動力で引く時代へ・・・   昭和30年頃、工場所有者のみに富が集中するという不満から、若者が中心となって区民誰でも利用できる  新工場が小谷と長谷に建てられた。工場のノートに記入しておくと後日砥石組合より利用分の請求書がくるシステム。  新工場建設を前後して個人の工場も多く建てられた。   販路を持つものが中心となって宮前町砥石商友会を結成して親睦を深めた。
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 中砥は青砥、門前、めつけ、佐伯砥と目が粗くなり亀岡側(宮川)から京都側に向かって質がおちていき、  合砥(仕上砥)は逆に京都側(梅ヶ畑)から亀岡側に向かって質がおちていく!  宮川の砥石販売業者は青砥だけでなく合砥も取り扱っていたが、質の悪い合砥は“干割れ”がし顧客からの苦情が多かった。
  砥石の繁栄によってもたらされた戦前の宮前町の三大自慢は役場の建物と宮前橋(永久橋)と  小学校の運動場(水はけが良くぬかるまないように造られた)と当時の校長が機会あるごとに言っておられたとのこと。
  最盛期、昭和20年半ばから30年初頭にかけては80%前後が宮川区内で生産されたと思われる。
 大なり小なり砥山の繁栄のおかげで派手な?生活を享受できた反面、  老いれば硅肺に苦しみながら亡くなっていくことが多かった。  「硅肺で苦しむ父親のため京都から酸素ボンベを担いで帰ってきた。」と聞いている還暦過ぎのM.Oさん。
 宮前町  砥石販売額  (昭和7年度)
   宮川   53,000円      65,4%
   神前   20,000円      24,6%
   猪倉     8,000円       9,8%
 崩落の場合、たいてい入口部分が崩落して、夜になっても帰ってこないので皆で助けに行くというのは  宮川でも数件あったようですが・・・   「あれはジェーン台風(25年9月3日)の2日前やったなぁ、助けを呼ばれて行ったら坑内の奥に下から這い上がろうとする  H.Iさんの首に杭が・・・怖かったのぉ・・・」と今年米寿のN.Oさんが猪倉の崩落事故死を語ってくださいました。
  基本の坑内堀は直径3寸5分くらいの丈の松の杭木を3等分し組んで、2寸くらい1間の松の“こかし”を  上に6〜7本通し、その上に“ガメ石”を置き、左右にも“こかし”を入れて石を置き掘り進んでいく。  入り口には音頭代を設け同じような作りにする
 小砥の宮前村砥石販売組合の砥石協定価格   八角、大砥、寸、ム寸、手砥の他にも細分化した規格や金筋の寸法による等級によって価格が定められていた。
 最盛期には近隣からも含め300人以上が働いていた!  当時 木馬で砥石をおろす作業者でも、小学校の校長よりも給料が高かったという。  村役場に勤めていた卒寿のT.Kさんは「なぜ役場なんかにつとめているの?」ってよく言われたという。
     一梱拾貫以上 一丁の寸法(寸)  
 本山青砥石    小砥一等     13以上  7.0X2.0X1.5    1300円 
   小砥二等    13以上  7.0X2.0X1.5     900円
 本山佐伯砥  小砥一等    13以上  7.3X2.0X1.5    1100円
   小砥二等    13以上  7.3X2.0X1.5    350円
 本山赤門前砥  小砥一等    11以上  7.5X2.0X1.5     800円
   小砥二等    11以上  7.5X2.0X1.5    450円
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 硅肺・崩落以外にも負の部分としては親方にのみ富が集まりやすいシステムによる経済的格差、  砥山の衰退による転職等があった。
 お客を招いて飲んで食べては近隣村と同じ正月、お盆、たちまち(隣組新年会)、法会、氏神村祭り、  正月伊勢講、お日待伊勢講や他の講(行者、観音、薬師、大原)以外に4月10日前後の花祭り(砥山慰労会)、  12月8日の砥山鞴(ふいご)祭りが盛大に行われ、区民に花見代・祭り代として祝儀のお金が配られた。
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