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 「千両普請、当時千円で立派な家が建った時代に砥石の親方の家の露地門が千円やったげな」  と今年卒寿のM.Nさんが教えてくださいました。
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 「1月17日の“たちまち”(隣組新年会)には遊戯として恒例の博打が行われていたが、時代も変わり  “今年は踏み込み有り”の情報にもかかわらず、『大丈夫 ?! 大丈夫 ?!』案の定警察のお叱りを受けることに・・・」   と卒寿のT.Kさん。  一攫千金どうにかなるさの砥山感覚も影響?・・・
 猪倉の今年米寿のN.Oさん曰く、宮川は何でも派手でパァーっと・・・神前は堅実でコツコツと・・・猪倉はその間とのこと。  砥山は他の地区が個人山なのに対し宮川は大半が区有山で区民1軒に1箇所の採掘権があり、  各戸に農業以外の収入手段があったため ?!   神前には共栄会【砥石採掘従業者(雇用者と労働者)の親睦・共済組織】や共済社、畜産組合など  互助会的なものが多く区民の堅実さが表れている ?!
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 「砥山での付合い、コミュニケーションによって、地域の風習・ルール・情報等なんでもわかり覚えていったので  “砥山大学”と言われていた」 と今年傘寿のM.Nさん
 年末の内物(区費)よりも砥石配当金のほうが高く配当金をもらうため内物は借金してでも払ったという!  結構な金額が区民に均等に配られた。
砥山の繁栄に纏わるエピソードや住民気質
 昭和28年、消防の慰労会で『ワシが金持って来るさかい、『今から東京行こうや ?!』『行こう行こう !!』  宮川気質・砥山のノリで新入団24歳の若者8人は2台のタクシー(シボレー大型)を借り切って一路東京へ・・・  まだ今の9号線西大橋(桂川)は無く松尾橋を通り、未舗装の多い1号線をパンク2、3回しながら  ガタゴト東へ東へ・・・夜になり清水で宿泊。  朝起きると松原に赤く輝く富士山!意見別れ東京までは断念するも富士山を目に焼きつけ帰路へ・・・    若い・戦後・砥山・富士山 前途洋洋たる未来に思えたのではないか。。。  他の地区の若者では出来なかったであろう当時のStand by Me を米寿のY.Nさんが語ってくださいました。
 「家にくる年2回(2月・8月)の節季払い、砥山で働く兄の飲み屋書付け(請求書)が兄の身長よりも高いと  親父がぼやいていたのを覚えている」と 卒寿のT.Kさん  これも鉱脈ひとつ当てればの気持ちがあるから ?! ・・・
 昭和の初期、砥石の親方が運転手付きのタクシー、トラック(シボレー製)を持ち営業!  「父が園中より自転車で帰宅中、雪で八田の親戚に足止め。祖母がタクシーを借り切って迎えに行った」   という話を還暦過ぎのM.Oさんが聞いている。
  砥石の隆盛と共に他所からの出店・移住が増え、160戸の集落にもかかわらず料亭・飲み屋・パチンコ屋等があった!  住民になって数年経つと、砥石配当金がもらえることも定住を即した一因である。。
 砥山が衰退しつつあった昭和36年、砥石マネー最後の輝きともいえる映写室を備えた近隣地域には無い  立派な公民館が建てられ、落成記念に蜷川虎三知事の講演があった。  数年後9号線亀岡間一部未舗装の時代に農協倉庫前から たっちゃん前まで舗装される。  倉庫前でローラースケートが流行る!
 「当時、小学生の間に『砥山の大将はるいっつぁ〜ん♪』と言うフレーズが流行った」 と今年米寿N.Oさん   「それはT.Oさんの作文の一文を面白がって・・・」 と米寿Y.Nさん   当時の小学校の飲料水も砥山(長谷)から湧き出る冷たく綺麗な水が引かれており、  子供たちにとっても砥山は身近で切り離せないものであったようだ。
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